東京から南へ約1,250キロ。太平洋のただ中に、硫黄の匂いを運ぶ噴気を上げ、今も隆起を続ける一つの島がある。東京都小笠原村に属する硫黄島。読みは「いおうとう」である。海外では「Iwo Jima(イオー・ジマ)」の名で知られるこの島は、1945年の激戦の舞台となり、戦後は自衛隊の航空基地が置かれる島となった。一般の旅行者が上陸する方法は、現在も存在しない。
この記事の姿勢を、最初に明確にしておきたい。硫黄島は戦跡であり、多くの戦没者が今も眠る場所である。本稿ではこの島を心霊や怪談の題材として扱わない。かつて流布した「不思議な体験談」の類は、戦没者と遺族、そしていまだ帰島できない旧島民への配慮から、ここでは取り上げない。扱うのは、記録と、慰霊と、続いている遺骨収集の営みである。表題に残る「戦慄」という言葉の響きに引きずられず、鎮魂の記録として読んでいただきたい。
島には戦前、約1,000人の島民が暮らしていた。1944年の強制疎開で島を離れた人々は、80年以上が過ぎた今も、故郷に戻って暮らすことができない。硫黄島の物語は、戦いの記録であると同時に、家を失ったままの人々の記録でもある。その両方を忘れないために、この座標を記録する。
Googleマップで観測する「隆起を続ける島」
航空写真を開くと、南西端に円錐形の摺鉢山(すりばちやま)がそびえ、島の中央部を滑走路が横切る独特の輪郭が見える。北東部には元山(もとやま)と呼ばれる一帯が広がり、噴気や変色した地面の痕跡が読み取れる。西の海岸線に目を向けると、かつて防波堤として沈められたコンクリート船の残骸が、隆起によって陸上に露出した姿で並んでいる。沈めたはずの船が陸に上がる。それほどまでに、この島は今も姿を変え続けている。
周辺は地殻変動が活発で、島の面積は1911年当時の約19平方キロから、2014年の調査では約24平方キロへと広がったとされる。摺鉢山の標高も隆起を反映し、長く169メートルとされてきたものが2016年に170メートルへ、さらに2023年には172メートルへと改定された。地図の数字が書き換わる島。それは、この土地が地質学的な時間のなかで今も動き続けている証しである。2023年10月には島の沖合で噴火が起き、新しい島が一時形成されたが、波の浸食により2024年2月までにほぼ確認できなくなったと気象庁と国土地理院が明らかにしている。
戦前の硫黄島 ― 1,000人が暮らした島
戦いの記憶に覆われがちだが、硫黄島には人々の日常があった。1943年の調査では192戸、1,018人が暮らしていたと記録される。元山をはじめとする六つの集落があり、小学校があり、神社があった。島の産業は硫黄の採掘とサトウキビなどの栽培、漁業が中心で、真水に乏しい島での暮らしは、雨水を頼る工夫の積み重ねだったという。
1944年、戦況の悪化とともに、島民は軍属として残る者を除いて疎開を命じられた。多くの島民は父島などへ渡り、やがて本土へと移った。「一時的な避難」のはずだった別れは、そのまま永い別れになった。翌1945年の戦いで島は戦場となり、戦後は米軍の占領下に置かれ、1968年に日本へ返還された後も、自衛隊の基地島として使われ続けた。旧島民に許されたのは、墓参のための限られた訪島だけである。故郷の土を踏むことはできても、そこに暮らし直すことはできない。その状態が、今も続いている。
1945年2月から3月 ― 36日間の戦い
1945年2月19日、米軍が硫黄島に上陸した。硫黄島の戦いの始まりである。当時、この島は本土空襲に向かう米軍機の中継・護衛拠点として、また日本側にとっては本土防衛の前線として、双方にとって戦略的な位置にあった。日本側の指揮を執ったのは、栗林忠道陸軍中将率いる小笠原兵団である。
栗林は海岸線での水際防御を捨て、島の内部に張り巡らせた地下陣地で持久戦を戦う方針を採った。地下壕の総延長は18キロメートルに及んだともいわれる。だがその内部は地熱の影響で高温多湿となり、場所によっては40度を超える過酷な環境だったと伝えられる。真水の乏しい島で、渇きと熱と闘いながらの戦闘が、36日間にわたって続いた。
上陸から4日後の2月23日、摺鉢山の山頂に星条旗が掲げられた。その日に掲げられた二度目の星条旗を捉えたAP通信のジョー・ローゼンタール撮影の写真は、第二次世界大戦を象徴する一枚として世界に知られる。後に米海兵隊の調査で、写真に写る兵士のうち一部の氏名が訂正されたことも、この一枚が検証され続けてきた歴史の一部である。戦闘そのものは山の陥落後も続き、組織的戦闘が終わったのは3月26日だった。
1945年2月19日から3月26日までの36日間。米軍は短期間での制圧を見込んだが、地下陣地に拠る日本軍の抵抗が長引いた。
厚生労働省は硫黄島の戦没者概数を約21,900人としている。戦闘に参加した日本側将兵のほとんどが島で命を落とした。
米軍の死者は約6,800人、負傷者は約2万1,900人とされる。死傷者の総数では米側が日本側を上回った、太平洋戦争でも稀な戦いだった。なお、数え方によって各数字には資料ごとの差がある。
1,000人余りとされる。地下陣地の奥深くでは、戦闘終了後もしばらく身を潜めた兵士がいたことが記録されている。
栗林忠道中将が家族に宛てて書き送った手紙は、戦後、書籍として刊行され、多くの読者にこの戦いの内側を伝えてきた。2006年には、この戦いを日本側と米国側の双方の視点から描いた二本の映画が公開され、硫黄島の名は世代を超えて改めて知られるようになった。映画はあくまで再構成された物語であり、記録そのものではない。だが、遠く離れた場所で起きた36日間を想像する入口として、多くの人々を慰霊と学習へと向かわせてきたことも、また事実である。本稿の読者も、映像作品に触れたことがあるなら、その先に一次資料と公的な記録があることを覚えておいてほしい。
数字は冷たく並ぶが、その一つひとつに、名前を持った人生があった。日本側の将兵の多くは本土防衛の盾となることを自覚し、米側の兵士の多くもまた若者だった。勝敗の言葉で括る前に、36日間という時間の重さと、失われた人数の大きさを、そのまま受け止めたい。
終わらない帰還 ― 遺骨収集の現在
硫黄島の戦いは終わっても、「帰還」は終わっていない。厚生労働省の公表資料によれば、戦没者概数約21,900人に対し、これまでに収容された遺骨は約10,800柱にとどまり、なお1万柱以上が島に眠ったままである。収容は政府の遺骨収集事業として今も続けられており、滑走路地区では地中探査に基づく調査と掘削が計画的に進められてきた。
作業を難しくしているのは、地熱と火山活動である。高温の地下、硫化水素を含む噴気、地形そのものを変えてしまう隆起。地下壕の全容はいまだ解明されておらず、どこに誰が眠るのか、手がかりは米側の記録資料の分析や、現地での丹念な探索に頼る部分が大きい。それでも収集は続く。故郷で待つ遺族のもとへ、一柱でも多くを帰すために。戦後80年を過ぎてもなお、この島では「戦後」が現在進行形で続いている。
2025年は戦後80年の節目の年だった。同年3月29日、硫黄島で日米の戦没者を追悼する慰霊追悼顕彰式が行われ、現職の内閣総理大臣として初めて石破茂総理が参列し、米側からも国防長官らが列席した。4月には天皇、皇后両陛下が硫黄島を訪問し、戦没者を慰霊された。かつて敵味方に分かれて戦った両国の人々が、同じ島の土の前で頭を垂れる。その光景は、この島が「戦場」から「慰霊の場」へと意味を変えつつあることの象徴である。
基地の島として ― 返還から現在まで
戦後、硫黄島は米国の施政権下に置かれ、1968年6月、小笠原諸島の返還とともに日本へ戻った。その後は海上自衛隊と航空自衛隊の部隊が駐屯する硫黄島航空基地が運用され、米軍の訓練にも使われてきた島である。本稿では基地の運用や警備に関する詳細には触れない。それは公開して記録すべき性質の情報ではないからである。
地名の読みにも、この島の戦後が刻まれている。島民や小笠原村の要望を受け、2007年、国土地理院と海上保安庁は地名の読みを「いおうじま」から戦前の呼称である「いおうとう」へと改めた。海外で定着した「Iwo Jima」という呼び名との落差はあるが、島を故郷とする人々にとって、名前は帰るべき場所の証しである。読み一つにも、帰島を願う人々の思いが宿っている。
旧島民とその家族に開かれた機会としては、小笠原村などが関わる墓参・訪島の事業がある。村の記録では、長く続いたチャーター船による宿泊訪島は、島と周辺海域の隆起の影響で見直され、2024年度には自衛隊機による日帰りの訪島が実施されたとされる。また日米の慰霊行事は、遺族や関係者を中心とするもので、一般向けに募集される旅行商品ではない。繰り返しになるが、一般の旅行者が硫黄島に上陸する手段はない。その「行けなさ」自体が、この島の現在の姿である。
当サイトの考察 ― 「遠い東京都」とどう向き合うか
硫黄島が一般に開かれていない理由は、軍事上の要請だけではない。島の地下には今も1万柱以上の遺骨が眠り、地熱と火山の危険があり、不発弾の可能性も残る。何より、ここは大規模な慰霊の対象であり、旧島民にとっては失われた故郷そのものである。観光地化されないこと、消費されないことは、この島の尊厳を守る条件の一部になっている。
同時に、忘れてはならない緊張もある。帰島を願う旧島民の時間は無限ではない。疎開を経験した世代は高齢となり、故郷の記憶は継承の瀬戸際にある。遺骨収集と、旧島民の訪島と、記録の継承は、どれも時間との競争である。入れない島であるからこそ、外にいる私たちが記録し、伝え続ける責任は重い。
周辺の観光スポット
硫黄島そのものを訪れることはできない。だが、同じ小笠原村の父島・母島には、硫黄島を含む小笠原の歴史と自然を学ぶ場所がある。硫黄島への思いは、まず父島で知識と向き合うことから深めたい。
小笠原の自然と歴史を総合的に展示する施設。世界自然遺産としての島々の成り立ちとともに、戦争の時代を含む小笠原の歩みを学ぶ入口になる。
ウミガメの保護・研究で知られる施設。戦いの記憶と並行して、島々が育む豊かな海の生命に触れることができる。
二見港を見下ろす高台の展望地。夕景の名所として知られ、冬季には沖を回遊するザトウクジラの姿を探すこともできる。硫黄島はこの父島からさらに南、水平線の彼方にある。
父島から高速船で約2時間の有人島。静かな集落と乳房山などの自然が残り、小笠原のもう一つの暮らしの姿に触れられる。硫黄島と同じ火山列島の島々を、遠望できる機会がある航路もあるが、上陸先はあくまで母島である。
小笠原諸島のうち世界自然遺産に登録されているのは父島・母島などであり、硫黄島は基地島であることから登録の対象外となっている。訪れる島と、遠く思いを向ける島。その区別を持って旅を組み立てたい。
現地で楽しむグルメ
硫黄島に特産品はない。ここでは、硫黄島への思いの拠点となる父島・母島の食文化を、小笠原村観光協会の公開資料などに基づいて紹介する。亜熱帯の気候と豊かな漁場が育んだ、島の暮らしの味である。
小笠原を代表する郷土料理。サワラなどの白身魚を漬けにし、わさびではなく和からしを添えるのが特徴とされる。八丈島の島寿司とも系譜を分かち合う、南の島々の食文化である。
島でアカバと呼ばれるハタの仲間を使った汁物は、地元の食卓の味として観光協会の資料にも紹介されている。豊かな漁場の恵みである。
亜熱帯の気候を生かした小笠原の代表的な果物。そのまま味わうほか、リキュールなどの加工品にもなっている。収穫期には島の直売所を賑わせる。
島の農家が育てるトマトは人気が高く、コーヒーの栽培も行われている。戦前、硫黄島でサトウキビ栽培に汗を流した人々の姿と重ねて味わうと、島々の農業の歴史にも思いが及ぶ。
店舗の営業状況は船の運航に左右される離島の常として変わりやすい。実在確認の取れない店名や価格は載せないので、現地の最新の案内で確認してほしい。
父島を起点に ― 硫黄島への「行けなさ」と向き合う
結論から書く。一般の旅行者が硫黄島へ行く方法はない。定期船も、定期便の飛行機も、一般募集のツアーも存在しない。ここでは、その事実と、最も近い場所である父島までの道筋、そして限られた公式の機会について示す。
小笠原への唯一の定期航路は、東京港・竹芝桟橋と父島・二見港を結ぶ「おがさわら丸」で、片道約24時間、おおむね6日に1便の運航である。飛行場のない小笠原では、この船が生命線となっている。
父島と母島の間には高速船「ははじま丸」があるが、父島から硫黄島へ向かう民間の定期航路は存在しない。硫黄島は父島の南、約280キロの海上にある。距離の問題ではなく、門が閉ざされているという問題である。
旧島民とその家族を対象とする墓参・訪島事業、日米の慰霊行事への遺族・関係者の参列など、公式の枠組みで島を訪れる機会は存在するが、いずれも対象者が限られ、一般の申し込みはできない。洋上から島を望む慰霊を組み込むクルーズが実施される場合もあるが、上陸は伴わない。
一般の旅行者に開かれているのは、父島・母島で小笠原の歴史と戦跡に触れ、南の海に向かって手を合わせることである。それは代替品などではない。遠くから思いを向けるという行為そのものが、この島に対する正しい距離の取り方なのだ。
硫黄島は自衛隊の基地島であり、許可のない上陸は法的な処置の対象となります。島内には不発弾や不安定な地下壕の残存が考えられるうえ、地熱や火山性ガスなど、自然そのものの危険もあります。船や航空機で無断に接近する行為も厳に慎んでください。近づけないことは、欠落ではなく、この島が負った歴史への礼儀です。
遺骨の収容数、慰霊行事の日程、訪島事業の実施形態は、いずれも年ごとに更新される情報です。最新の状況は、厚生労働省の遺骨収集に関する公表資料と、小笠原村の公式案内で確認してください。本稿の数字は執筆時点の公表資料に基づきます。
断片の統括
硫黄島。地図の上では東京都の一角として静かに描かれるこの島は、今も隆起し、噴気を上げ、姿を変え続けている。だが、どれほど地形が変わろうとも、1945年の36日間と、約1,000人の島民が暮らした日々と、まだ帰れない人々の存在は、この島の履歴から消えることはない。
私たちはこの島に入ることができない。けれども、入ることができない場所について知り、記録し、思いを向け続けることはできる。遺骨収集の営みが続き、慰霊の式典で日米の人々が並んで頭を垂れ、旧島民の訪島が細く長く続いていく。その一つひとつが、この島の「戦後」がまだ終わっていないことの証しであり、終わらせるための営みである。
摺鉢山の標高がまた書き換わる頃、この島の何が変わり、何が変わらないまま残るのか。立ち入ることはできずとも、そこに「在る」ことを忘れないこと。それが、遠く離れた私たちにできる、最も確かな慰霊の形である。この座標の断片を、ここに留めておく。
参考資料・関連リンク
- 厚生労働省 国内における遺骨収容実施状況 — 硫黄島の戦没者概数約21,900人と収容遺骨数の公表資料
- 政府広報オンライン 硫黄島戦没者慰霊追悼顕彰式(2025年3月29日) — 戦後80年の日米合同の慰霊行事の記録
- 硫黄島(東京都) — Wikipedia — 島の地理、隆起と面積の変化、戦前から返還までの沿革
- 摺鉢山(東京都) — Wikipedia — 標高が2016年に170メートル、2023年に172メートルへ改定された経緯
- 小笠原村観光協会 郷土料理と特産品 — 島寿司、アカバの汁物、パッションフルーツや島レモンなどの特産
- 小笠原村公式サイト — 村の公式情報と旧島民の訪島事業に関する案内


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