OBJECT: HOBBITON MOVIE SET (THE SHIRE)
STATUS: PERMANENT MOVIE SET / TOURIST DESTINATION
ニュージーランド北島、ワイカト地方。見渡す限りの緑豊かな牧草地が広がるこの平穏な農村に、地図上の「バグ」とも思えるような奇妙な一角が存在する。マタマタ(Matamata)。かつては平凡な羊の飼育地だったこの場所は、ある日を境に「この世界ではない場所」へと変貌を遂げた。
そこには、小高い丘の斜面に埋め込まれた色とりどりの円形の扉、精巧に作り込まれた水車小屋、そして実を結ぶことのないはずの巨木が、不自然なほど完璧な姿で佇んでいる。映画『ロード・オブ・ザ・リング』および『ホビット』三部作の舞台となったホビット庄(Hobbiton)である。
映画のために作られた「セット」という言葉では、この場所の特異性を説明しきることはできない。なぜなら、ここには撮影が終了した後も解体されることなく、ひとつの「生きた村」としての記憶が残留し続けているからだ。今回は、フィクションが現実を侵食し、新たな「蒐集された噂」の源泉となったこの奇跡の座標をアーカイブする。
選ばれた丘:ピーター・ジャクソンの視線
1998年、映画監督ピーター・ジャクソンは、J.R.R.トールキンの描いた「中つ国」を具現化するための場所を求めて、上空からニュージーランド全土を捜索していた。彼の目に留まったのが、アレクサンダー家が所有する広大な農場だった。
そこには、ホビットたちが暮らすにふさわしい、丸みを帯びたなだらかな丘陵と、物語の鍵となる「パーティー・ツリー(宴の木)」に酷似した立派な松の木、そして静かに水を湛える湖があった。文明の利器を感じさせる電柱や道路が見えないその風景は、まさに神話の世界そのものであった。
建設にあたっては、ニュージーランド軍までもが動員され、丘を切り開き、39個に及ぶホビットの穴(Hobbit Holes)が作られた。当初、これらは一時的な映画セットとして、発泡スチロールや合板で作られていた。しかし、その後の再建を経て、現在は本物の煉瓦や木材、石を用いた「恒久的な建築物」へと進化した。これが、他の撮影地とは決定的に異なる点である。
航空写真:牧草地に刻まれた円環の意匠
以下の航空写真を確認してほしい。一面の緑の絨毯の中に、不規則でありながら計算されたような「穴」が点在しているのが見える。これこそが、ホビットたちが暮らす住居の入り口である。自然の地形をそのまま利用しつつ、人工的な意匠がこれほどまでに見事に融合している例は、世界中を探しても他に類を見ない。
閲覧者はぜひ、ストリートビュー(可能な場所があれば)や公式のギャラリーで、その細部を観察してほしい。特に注目すべきは、丘の頂上にある「袋小路屋敷(Bag End)」の玄関だ。そこから見下ろす村の全景は、かつて映画の中でビルボやフロドが眺めた景色そのものである。
蒐集された噂:作り込まれた「嘘」と「真実」
この場所には、訪れた者を困惑させるほどの緻密なディテールが溢れている。それは時に「蒐集された噂」として、ファンの間で熱く語られる。
例えば、ホビットの穴の前に置かれた小さな洗濯物や、薪割りの跡、さらには庭で栽培されている本物の野菜たち。これらは単なる小道具ではない。撮影期間中、ジャクソン監督は「ホビットが本当にそこに住んでいる雰囲気」を出すために、撮影の数ヶ月前から実際にスタッフを住ませ、小道を歩かせ、生活の跡(汚れや摩耗)を人工的に作り出させたという。
最も有名な噂のひとつに「フェイクの木」がある。袋小路屋敷の上にある巨大なオークの木は、実は鉄骨とシリコンで作られた人工物である。台湾から輸入された20万枚以上のプラスチック製の葉が、一枚一枚手作業でワイヤーに取り付けられた。映画の時系列を合わせるために、わざわざ葉の色を調整したという逸話は、もはや狂気的なまでのこだわりであり、それがこの座標に「異世界の真実味」を与えている。
- 残留する魔法: 夜、緑竜館(Green Dragon Inn)に火が灯ると、訪れる者は自分が21世紀のニュージーランドにいることを忘れる。そこで提供されるジンジャービアの味とともに、中つ国の記憶が脳裏に定着する。
- スケールの錯覚: ホビットの穴には、人間サイズで作られたものと、ホビットサイズ(小さめ)で作られたものの2種類がある。俳優の身長に合わせて使い分けられたこれらの住居は、遠近法を狂わせる「不自然な座標」としての側面を持つ。
- 消えない足跡: 撮影が終われば撤去されるはずだったこの地が、アレクサンダー家の決断により保存された。この「フィクションの保存」という行為が、世界中のファンを惹きつけ続けている。
当サイトの考察:物語が土地を「再定義」する瞬間
マタマタのホビット庄は、人間が作り出した物語がいかにして物理的な土地を「再定義」し、新たな霊性を宿らせるかを示す究極の例です。本来そこにあったのは、羊が草を食むだけの牧歌的な農場でした。しかし、映画という強力なフィルターを通したことで、この地は数千年の歴史を持つ「ホビットの故郷」というアイデンティティを獲得しました。
興味深いのは、訪れる多くの人々がここを「映画のセット」としてではなく、「実在するホビットの村」として大切に扱っている点です。残留する記憶とは、過去の出来事だけを指すのではありません。人々の想像力が共有され、固定されたとき、そこには新たな「事実」が生まれます。
地図上の座標は変わりませんが、そこにある「意味」は、物語によって永遠に上書きされたのです。
アクセス情報:冒険の旅への出発点
マタマタへの旅は、現代のニュージーランドにおいて最も人気のあるアクティビティのひとつである。
* 主要都市からのルート:
ニュージーランド最大の都市オークランド(Auckland)から、車または長距離バスで南下。所要時間は約2時間〜2時間30分程度。観光拠点となる「The Shire’s Rest」を目指すことになる。
* 手段:
レンタカーが最も自由度が高いが、オークランドやロトルア(Rotorua)からの日帰りツアーも非常に充実している。
* 注意事項:
警告:ホビット庄(映画セット)への入場は、公式ツアーへの参加が必須である。私有地であるため、勝手に敷地内に立ち入ることは厳禁。非常に人気のスポットであるため、数週間前(ハイシーズンは数ヶ月前)からの予約が推奨される。また、坂道や未舗装の路面を歩くため、歩きやすい靴での訪問が必須。撮影セット内の小物には手を触れない等、物語の世界を守るためのマナーを遵守すること。
周辺の見所とワイカトの恵み
マタマタを訪れたなら、その周辺に広がるワイカト地方の魅力も堪能してほしい。
- マタマタの町: 町のi-SITE(案内所)自体がホビット風の建物になっており、到着した瞬間から気分を盛り上げてくれる。地元のカフェでは、ボリューム満点の「農夫の朝食」が楽しめる。
- ワイカトの乳製品: この地域は酪農のメッカ。濃厚なチーズやアイスクリームは、旅の疲れを癒やす最高の味覚である。
- ロトルアの地熱地帯: マタマタから車で約1時間。中つ国の一部を思わせる、立ち上る湯気と泥火山の風景は、さらなる「異世界体験」を約束する。
Hobbiton Movie Set:公式予約・情報サイト(英語)。
Reference: Hobbiton Movie Set Official
New Zealand Tourism:ニュージーランド政府観光局によるガイド。
Reference: 100% Pure New Zealand – Matamata
断片の総括
第573号の記録、マタマタ。それは、フィクションが現実を凌駕し、新たな「真実」として土地に根付いた、不自然かつ美しい座標の記録である。
航空写真に映る緑の丘、その下に隠された39の扉は、私たちが日常で見失いがちな「想像力の力」を雄弁に物語っている。残留する記憶とは、単なる過去の遺物ではなく、未来へと受け継がれる物語そのものなのかもしれない。
もし、あなたがこの座標に立つことがあれば、耳を澄ませてみてほしい。丘を抜ける風の音の中に、陽気なホビットたちの笑い声や、冒険へといざなう魔法使いの馬車の音が、確かに混ざっていることに気づくはずだ。
(蒐集された噂:NEW ZEALAND-MATAMATA)
記録更新:2026/03/10


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